ヤギェウォ大学学生新聞の記事(日本語訳)
「ステュ劇場のゆう子姫」


1997年10月22日、20日のクラクフ公演を終えた私たちは、友人でもあるヤギェウォ大 学演劇学科講師スワヴォミラ・ボロフスカさんの依頼で、同大学演劇学科で特別授業 を行いました。千賀ゆう子が、今回の作品(「夜長姫と耳男のためのエチュード」) について、また日本の現代演劇の状況について。辻野隆之が、演劇における照明理論 。米澤牛が、地方での現代演劇の状況、また経済的な背景について。丹下がオブザー バーで参加しました。授業は、日本語でおこない日本語--ポーランド語の通訳が2人 (日本人とポーランド人)つきました。
その後、ヤギェウォ大学の学生新聞のインタビューを千賀ゆう子が受けました。学生 新聞といってもインターネットでホームページを持ち、学生だけが読むものではあり ません。
(大学の存在、および大学生の社会の中での位置が日本とは少し違います)


ステュ劇場のゆう子姫
PLUS RATIO紙1997年11月12日号

 10月20日、テアトル・ステュにおいて千賀ゆう子氏率いる日本からの劇団によ る「夜長姫と耳男」が上演された。
 この劇団がクラクフを訪れるのはすでに2度目になる。上演は原作と同様日本語で 行われたが、それにもかかわらず俳優達の見事な演技は、この作品を観衆に理解させ るのに充分足るものであった。
 上演後、我々はこの劇団において構成演出、女優、プロデューサーその他数多くの 役をこなす千賀ゆう子氏と話し合う機会を持つことができた。

Plus Ratio(以下PR):千賀ゆう子企画では、どのようなタイプの作品を主に上演し ていますか? その特徴を教えていただきたいのですが?
千賀: 一言で言うと、現代劇です。私自身、かつて日本の現代演劇界において一つ の潮流を担った、アンダーグラウンドの劇団から出ています。
 今回、私とともに来た演劇グループは伝統的な解釈に従うなら劇団とは言えません 。それよりは、長い期間をともに活動してきた人間の集まりといったほうが的確でし ょう。
彼等は、私にとって長い間、互いに共通の事柄に従事してきた親友たちです。私は、 このグループの最年長者で、舞台に立つようになってからすでに30年になります。 最初の10年間は、早稲田小劇場という劇団に属していました。この劇団の初期の劇 団員たちは今では四散してしまいました。この頃、私はすでに自分の劇団を持ち、作 品を上演し始めていました。

PR:何をするか決めるとき、あなた方は何処からアイデアを探してくるのですか?
千賀:私は多くの若い人達と働いています。上演作品についてのイメージを造るのは 主に私です。半面、私は、メンバーたちとよく話しをします。例えば、照明担当の辻 野隆之氏には、深い信頼を寄せています。また、各々が、深い同一線上にあるパート ナーとして、自らの畑に応じて作品創造に一役買っています。

PR:1982年の活動開始以来、千賀ゆう子企画は、様々な場所で公演してきたわけ ですが、クラクフの観客をどう思われましたか? 何かここ特有のものを感じられま したか?
千賀:この町の観客は素晴しいと思います。クラクフで演劇が高く評価されているこ と、これは重要な事です。ここからは、多くの演劇人が輩出されています。例えば、 Tカントールとかね。
 日本の古都京都出身の者として、ここは、私が以前から来たいと思っていた町でも あります。ポーランドにとってクラクフは、日本にとっての京都(と同じような位置 を占める町)のように思います。このような理由からクラクフに対しては、とても身 近なものを感じています。正直に言わせてもらえば、私はあまり東京が好きではあり ません。そして、こんなことを言っていいものかわかりませんが、ワルシャワよりク ラクフの方が好きだと、きっぱり言い切れます。

PR:あなたは、カントールに触れられましたが、ということはポーランドの舞台芸術 は日本人の間で知られているととってよろしいのでしょうか?
千賀:もちろんです。もし、演劇界に限ればポーランドは、その現代劇によって充分 に知られ、尊敬を集めているといえるでしょう。現代美術センターもよく知られてい ます。私も昨年、アンジェイ・サドフスキ氏の招待でポーランドを訪れたさいこのセ ンターを訪問し、稽古場を提供していただきました。サドフスキ氏には、私たちがロ トゥンダで「古事記をめくる」を上演したさいプロデューサーも勤めていただきました。

PR:千賀ゆう子企画とポーランドの各劇場との交流は、どのようにして始まったので すか? 発起人は誰だったのですか?
千賀:初めてポーランドを訪れたのは1976年、私はまだ早稲田小劇場の劇団員でした 。当時は多くのヨーロッパの国々を旅行しましたが、最も気に入ったのは-----これ はお世辞ではなく-----ポーランドでした。その時、いつか舞台作品を持ってもう一 度ここに戻ってこようと心に銘じました。
 1993年、私たちの東京公演が、当時駐日ポーランド大使を勤められていたヘンリッ ク・リプシッツ氏に気に入っていただいたことから、突如としてポーランド公演の計 画が私のところに舞い込むこととなりました。
 東京には、ストライプハウス美術館という小さな美術館があります。ここの館長は 、写真家として有名な塚原琢哉氏の夫人です。氏はこのポーランドに45回、足を運 ばれています。このストライプハウス美術館で私たちは、もうかなり長いこと公演を 続けてきました。塚原氏は、私たちのポーランド公演への道も準備して下さいました 。塚原、リプシッツ両氏に、今回の私たちのポーランド・ツアーに関して心から御礼 を申しあげたいと思います。

PR:ありがとうございました。

対談者:アグネシカ・ノヴァク、アグネシカ・リビンスカ
付記:ヤギェウォ大学演劇学科のスワヴォミラ・ボロフスカさん、同日本語学科のアレクサンドラ・コウォジェイチェックさんの御協力に感謝の意を捧げます。
(翻訳/青沼洋子)


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