「夜長姫と耳男のためのエチュード」
ポーランド、クラクフ公演の劇評(日本語訳)


「耳を澄ます」
STU劇場 日本人たちはどう語ったか

<本文>

このスペクタクルは二重の意味で抽象的だった。まず第一に演出が抽象的、そし てもう一つは・・・

芸術家たちの言葉を聞くことも抽象的であった。なにしろ彼らは自分たちの母国語、つまり日本語を使っていたのだから。月曜日に公演された演劇「夜長姫と耳男」を誰
もポーランド語に訳さなかったのはむしろ幸運だった。
舞台はいわゆる「超言語的」であったため、理解に苦しむことはなかった。理解しよ うとした人は理解できたはずだ。千賀ゆう子率いる役者たちは文字どおりその全てを 出し切った。ゆう子が彼らに言った、「遊びなさい、戯れなさい、たとえそれが見せ かけてあっても。役に成りきりなさい。」という言葉そのままに演じた。
5人の役者がこの限りなく美しい、(それが坂口安吾の生み出したアイディアを取り 入れたものであるにせよ)独自の物語を演じた。単純な話なのか?表面上はそうみえ る。ポケットに携帯電話を持ち、道を急ぐ人々がいる。彼らはお互い肩が触れるほど 近くを通り過ぎながら、恐ろしいまでに他人である。
ここまでが一つの時間であり、やがて二つ目の時間が舞台を包み込む。それは−−ま たもや表面上は−−−最初の時間と関係ないように見えるからであろうか、より難解 である。
冷酷な姫がいて、腕を競い合う三人の彫刻家がおり、疫病が、蛇が、仮面が、化け物 があり、それとともにまろやかで和音を無視した音楽が流れる。鈴の音が鳴るとき、 電話が、ロッカーが、数字が登場するが、そこには最も無くてはならない大切なもの −−−コミュニケーション−−−が欠けている。
舞台はやがて現実の話から御伽噺へと流れていく。その御伽噺もまた現実的であり、 もしくは現実よりも更に現実的である。電話を持ち、椅子から椅子へと飛び回り、互 いに人間性を奪い合う人々は、ある時は一瞬にして、また別の時には溶け入るように 夜長姫と耳男へとそれぞれ変わっていく。二つの時間の中で彼らはふと出会い、また は全く出会わずにいる。
しかし、たった一度、共に一つの感覚に神経を傾ける。彼らは耳を澄ます。

”何十億年も昔、世界のはじまる頃、
  路地の石ころ
  コンピュータの音
  耳を澄ます
  ためらっている隣の人に”

きっとこの種の演劇を表現主義的演劇(注)と呼ぶのだろう。私はこれを「耳を澄ま す演劇」と名付けたい。

(R・R)
Gazeta Wyborcza「ビボルチャ新聞」1997年10月21日(火)

注/ここでいう「表現主義的演劇」とは一般にいうリアリズム演劇に対するものとい う意味で使われています。


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