花の下にて ---- 「桜の森の満開の下」より


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 坂口安吾原作の小説「桜の森の満開の下」をもとに、劇作家岸田理生が千賀ゆう子のために書き下ろした同名の語り芝居は、1983年東京で初演されて以来、京都、名古屋、仙台、富山、金沢、高岡、新潟、長岡、松之山、桐生その他全国各地で再演を重ねてきました。
 本公演では、新津市美術館のアトリウムの白亜の大理石の空間を生かすため、今までの舞台を踏まえた上で、新しい構造を持つ作品を創り出したいと思っています。役者2人、パーカッションの橘政愛氏とメンバーは同じですが、テキストをもう一度原作に求め、現代詩等を含む幻想と現実の交錯する現代劇として提出したい。美術は、スライドやビデオを用いビジュアリストのナシモト・タオさんとの共同作業で時空を変容させたいと思っています。
 したがって舞台は、求心的な物語りの世界ではなく「桜の森の満開の下」の持つエキスとテンションを含みつつ異なったイメージの断片の放出となり、アトリウムにふさわしいより開かれた自由な想像力を働かせる隙間を持つ時間となることを願っています。


花の下にて(パンフレットより)

千賀ゆう子

 さくらの季節には、なんだか頭痛がします。
 ものごころついた頃から、春は、どうもいけません。そのくせ、四月生まれ、じっ とはしていられない。桜に誘われます。
 十歳頃でしたか、その頃何年か私の誕生日、十三日に、母と二人で、岡本と芦屋の 中間にある古い墓地に桜を観にゆくことが習わしになっていました。なぜか父と妹は 一緒ではなかったのです。その日、まだ寒いのに新しいセェ−タ−が嬉しくて、上着 も着ずに散歩にでました。
 ・・・・まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちていま す。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。・・・・(桜の森の満開の下より)   お墓の敷石の上まで花びらがちりつもって、きれい、きれいと私は走りまわりなが ら、花びらをすくっては、まき散らし、花びらのあつい層を求めて駆けまわりました 。どのくらいたったか、ふと気がつくと、誰もいません。静かでした。急に寒気がし て、私は母の姿をさがしました。広い墓地の遠くに、ポツンと母の姿がみえました。 思わず駆けよって、でも、こわくなったのがてれくさくて、とっさに「ねえ、うち、大きくなったらどん な大人になるんやろね」と口からでまかせをいいました。なぜそういったのかはわか りません。
 すると母は、ふりむきもせず、「そんなことは、誰にもわかりませんよ。」と妙に静 かに答えたのです。聞いたこともない口調でした。そこには、見知らぬ女の人が冷たい横顔をみせて立っていました。みなれた母の顔ではありませんでした。私は、その 晩、熱を出しました。考えてみれば、まだ母も三十代なかば、母を女の人と見た最初 でした。そして、そんなことはすぐに忘れてしまいました。
 高校生の時、“桜の森の満開の下”を読んだ時、昔から知っているお話のように腑におちました。一気に読み終えて、突然、思い出したのです。あの突き放されたような、いいようのない感じを。それから安吾は、大事な人になりました。辛い時、どうしようもない時、いつも側にいてくれました。学生運動をやめてふてくされていた時、卒論は安吾に頼りました。芝居をやめていた時、もう一度やろうと思ったのも安吾を読んで少し元気が出たからでした。そして季節は春でした。あいかわらず頭痛が していました。
 春、花の下では、色々なことが起きます。人との出逢い、別れにも桜がついてまわりました。それで、ずっと“桜の森の満開の下”を舞台化したいと思ってきて、岸田理生さんの脚本で実現しまた。十五年やってきて、私の人生も変転があり、それとともに舞台も変わってきたように思います。東京をはじめ、全国各地、念願の新潟、松之山、桐生と舞台をすることができ、十五年たって新津市美術館の空間に出逢いました。
 “桜の森の満開の下”のリクエストです。この空間では、違う“桜”をやってみた いと思ったのです。
 今ままでの“桜の森の満開の下”も私にとっては大事な作品にちがいありませんが 、三年前の公演のとき、今度は少し年を取るまで置きたいなと思ったのです。それで今回は新しい試みに挑戦してみようと思いました。原作の言葉から離れて、でも本質的に通底する、そんな世界を作りたいと念じています。
 作業現場は始まっています。沢山の方々のお力をいただき、深く感謝するとともに 、その思いをばねとして、この不確かな現代に何かを交感できるような風をおこしたい。 願わくば、花の下、安吾の透明な風を感じることができますように・・・・・ 。