安吾生誕百年にちなんで
〜「新潟安吾の会」小誌掲載予定〜
2007年2月/千賀ゆう子


 安吾生誕百年にちなんで、私はさて何年、安吾の作品と向き合ってきたのだろうと改めて考えてみた。最初の作品は『桜の森の満開の下』だった。当時の私は人見知りの激しいいわゆるオタクっぽい高校生で、所属するクラブは飼育部。屋上で(兵庫県立芦屋高校の飼育部は広い屋上を占拠していた)伝書鳩や熱帯魚やうさぎ達に囲まれて、図書館から山のように本を借りて読んでいるのが日課だった。演劇などというものはキザな露出趣味の人達のやるもので、自分には関係ないと思い込んでいた。そのくせ後で思うと、バレエを習っていたので小・中学生の時は学芸会には良く引っ張りだされていたが・・・もしかしたら転校を、小学・中学としたのでそれなりにいじめにも合い(もちろん勝気でもあった私はすぐに闘って解消はしたが)人間関係が煩わしかったのは確かだから、高校生の時には特別の友達もいらなかった。安吾の本を手にしたのも、単純に“桜”という字に惹かれたからに過ぎなかった。私は4月生まれで“桜”の季節には落ち着かなくなるほど桜好きだったからである。けれども安吾の本を読むまでは全く忘れていたことを一挙に思い出した。

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 いくつだったか、子供の頃、誕生日に母と2人で散歩に行った。そこは岡本と芦屋の間の山の中腹にある古い墓所で、訪れる人も少なく桜が見事だった。土肌の上もお墓の下段の方まで一面に花びらが敷きつめられて満開の桜。子供の私は花びらを集めてはまき散らし走り回ってキャッキャッと喜声をあげて遊んでいた。ふと、自分の声が響いてあたりを見わたすと、シーンとしている。急にこわくなって母の姿を探すと、遠くにぽつんと立っていた。駆け寄ると、照れ隠しに「ネエ、ネエ。うち、大きくなったらどんな大人になるんやろうね。」と母に聞いてみた。すると私に「そんなこと、誰にも分かりませんよ。」と言った母の横顔は、見知らぬ女の人の顔だった。あの時の何とも突き放された感じ。桜は何だか怖いって思った。でも子供のことだ。そんなことはいつの間にかすっかり忘れてしまっていた。安吾の桜の森を読むまでは。それでこの作品には、深い意味も何も分からないながらも、すっかり納得したのでありました。それから何年もたって自分がこの作品を芝居にして20以上も上演することになるとは全く思わずに。濫読の本の中のお気に入りの一冊になったのが、十六才の時だったか、大学に入ってからは熱心な読者になったから十八才からとしても45年はお付き合いさせて頂いているわけである。演劇人として具体的に作品を上演しはじめてからも20年以上経つ。舞台化したのは『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』。どちらも演出を変えて、劇場、映画館、お寺、神社、ライブハウス、美術館、野外、文学館、ギャラリーと様々な空間で上演してきた。ポーランド四都市、ルーマニア等、海外でも上演している。この二作品は芝居の上演だけでなく、リーディングでも上演している。

 2000年からの安吾の上演記録(その前は省く)はざっと次のようである。

2000年 4月 六本木ストライプ美術館最終公演として、語り芝居『桜の森の満開の下』。
2003年 10月 『桜の森の満開の下』を、脚色した岸田理生さんへの追悼の意を込めて安吾終焉の地、群馬県桐生市の第4回有鄰館演劇祭でのト書きを含めたドラマリーディング。
2003年 12月 六本木ストライプハウスギャラリーにて、千賀の現代ヴァージョン演出による『桜の森の満開の下』。
2004年 9月 六本木ストライプハウスギャラリーにて『桜の森の満開の下』を大和田新演出による現代ヴァージョン。
10月 同、新潟県民会館。
2005年 1月 構成・演出千賀による『夜長姫と耳男』ライブリーディング。
2月 同『夜長姫と耳男』ライブリーディングを、安吾没後五十周年記念「手書きの安吾展」の一つとして桐生市有鄰館にて。


 そして、いよいよ生誕百年の年。前からこの年は安吾づくしにと考えていた。

2006年 1月 『白痴』をパーカッション(りは)とのセッションでライブリーディング。(於:六本木ストライプハウスギャラリー)。
2月 『夜長姫と耳男』高校生の出演による現代劇を演出(劇団 ルームルーデンスの依頼により)。新鮮なエネルギーに満ちた舞台は、父兄達からも絶賛を浴びた(於:東京シアターΧ(カイ))
3月 『桜の森の満開の下』。五弦ベース(水野俊介)とのセッションでライブリーディング。(於:見附市図書館)
ここは以前にも語りを依頼されたこともあり懐かしくも嬉しいふたたびであった。


 と、ここまでは、いつもの通りの公演にまつわる大変さであったが、ここからは<あちらこちら命がけ>と言いたいぐらいであった。

 そもそも『桜の森の満開の下』のこのたびの企画が、昨年、韓国へ行った時いきなり持ち上がってきた話だったので準備期間が短い。韓国の演出家、金亜羅と、ビジュアリストの崔鐘範を招いて全く新しい上演を、という計画で、出演者も演出の要求で4人。山賊に舞踏家の鶴山欣也、ヴォイス・ヒグチケイコ。作曲・演奏・声にエレクトリック大正琴の竹田賢一と豪華なメンバーに私である。金亜羅は、故岸田理生の親友であったので、理生さんと何回か韓国へ彼女の芝居を観に行ったりしていた関係で、当時新しくオープンする竹山(チュクサン)野外劇場での『オイディプスII』に役者として招かれて約4週間滞在し出演して以来だから八年ぶりの共同作業であった。スケールの大きい仕事をし続けている亜羅はいまや韓国を代表する演出家であり舞台に対しては贅沢なので、資金面での大変さは目に見えていた。韓国大使館の後援も取り付け、企業もまわったが協賛してくれたのは在日韓国企業の「アートン」1社であった。4月には、若い人と一緒に安吾のリーディングをやることも決まっていたし、稽古に制作に多忙であったが体調を崩し、検査の結果、いやな病名を告知された。4月12日(誕生日の前日)のことだ、一瞬、芝居もリーディングもやめてしまおうかとも思ったが、今年は特別な年だ。後にはひけない。しかも両方とも安吾なのだからと手術を2ヵ月半延期して、本番2つをまずやることにした。

4月 『堕落論』『風と光と二十の私と』『文学のふるさと』のライブリーディング。出演者は、加藤翠、木舘愛乃、佐藤和加子に私。入間川正美のチェロとのセッションによる。(於:六本木ストライプハウスギャラリー)


 このリーディングは、千賀が『堕落論』と『文学のふるさと』を語り『風と光と二十の私と』を若い3人に語ってもらった。出演者が若いと若い観客が多くなり、安吾を知らない若い世代にも大好評であった。

 さて、“桜の森”の方の稽古は、出演者も多忙、演出家も多忙でスケジュール調整がうまくいかず、制作的にも何かとはかどらず、体調も悪く(当たり前だが)結構きつかった。もっともこの“桜の森”にはジンクスがあって公演で体調が良かったためしがない。仙台・広島公演の時などは40度も熱があったし、私の自己管理力のなさばかりとはいえないのである。でもなぜか、不思議と舞台の出来は良かったりする。要するに「安吾先生、きつい思いをしてものを創れということですか?さすが百年ともなるときつさもすごいわ!」などと開き直っていた。演出は今までとは全く違う。私に集中していたセリフが分散されて、ボイスのケイコの声が音楽的に響いてきた。音楽家が“音”として使う言葉は新鮮だった。安吾の言葉のリズムが聞こえてくる。安吾の言葉はなるほどこんなに音楽的にもノルのだと思って嬉しかった。もちろん何回も観てくださっている観客の方は求心力のある語りを期待して物足りなく思った方もいらしたようだが、私には思いがけない発見であり、いくつかのセリフを歌がかりのように試してみた。演出も気に入ってくれたようだったし、安吾の言葉の質は現在形でイキイキと力強いので、充分にそういうやり方も成立すると思った。いつかもっと大胆に試してみたい。新潟の能舞台での体験は、今までの“桜”とずいぶん違っていた。体力がなくて頑張れないという理由もあったのかもしれないが、こんなに頑張らずに肩の力が抜けて、かつてなく素直に、桜の森の満開の世界を見つめる婆々として呆けていられたのははじめてだった。私の中で違う風が吹き、声が聞こえた。金亜羅は4人の演者をビジュアルで新しいアンサンブルの世界を創ろうとしていた。だが、能舞台の空間の難しさを取り込むには時間も稽古も充分でなかったし、その意図とビジュアルは東京アゴラ劇場の方がクリアーに仕上がったと思う。でも私には未知の風が吹いた新潟のりゅーとぴあの能舞台の不思議な呆けた時間の方が今は懐かしい。

6月16日 『桜の森の満開の下』
於:新潟りゅーとぴあ能楽堂
(共催 新潟文化振興財団)
6月22日
昼・夜
同『桜の森の満開の下』
岸田理生連続上演2006参加作品(岸田理生を偲ぶ会)。この年は理生さんの三回忌でもあった。


 さて、6月の本番を終え、手術も無事終了。7月には仙台でリーディングのワークショップ。8月、平家物語の語り、9月、2006年は日豪交流年でもあったのでオーストラリアの戯曲『ラブ・チャイルド』をドラマリーディング。

9月 『桜の森の満開の下』をドラマリーディング。(於:浜松、大林寺)
あの能舞台での発見を拡大して少々ミュージカルっぽい上演にしてみた。
10月 生誕百年祭の前夜祭に『ふるさとに寄する讃歌』(斉藤氏のリクエストによる)、『ピエロ伝道者』(桐生、蓑崎氏のリクエストによる)『文学のふるさと』をチェロとのセッションでライブリーディング。(於:シネ・ウインド)。
シネ・ウインドは昔、安吾のふるさと新潟で何とか芝居をしたいと願っていて叶った最初の舞台だった。だから前夜祭はシネ・ウインドで語りたいとの私の切なる願いを聞き入れてくださったわけである。
11月 『ふるさとに寄する讃歌』『日本文化私観』をチェロ(入間川正美)とのセッションでライブリーディング。
出演、加藤翠、千賀ゆう子。(於:六本木ストライプハウスギャラリー)


 世代の違う若い女性と語ることで、違うリズムを持ち込み、硬派な作品にふくらみを持たせたいと願ったからである。構成を何回も組み換えてみたが、結局チェロのソロが途中入るだけの休みなし、突っ走る1時間45分であった。観客の反応は我々がびっくりするほどの好評で(全く地味で硬派な作りだったので一抹の不安があったのに対してという意味です)。語り手の加藤翠がすっかり安吾ファンになってしまった事も大きな要因だとは思うが、若い世代をこれだけ惹き付ける安吾は、やっぱり偉大なのでアリマス。

 これで安吾百年に関する私達の闘いは一応舞台にとっては、終ったと思ったが、どうして、12月の私の企画『オフィーリア・マシーン』の中でも、即興の場面ともなると私以外の出演者からも安吾の言葉が行き交い、最後まで安吾の言葉は踊っていたのである。安吾に始まり安吾に終ったともいえる生誕百年の年であった。


 考えてみれば安吾の生きた四十九年は、日本が世界と関係において最も大きく変化した時だったし、それまでの価値観を覆されざるを得なかった時代だったはずだ。だが彼の視線は、うわべの変化に動かされることなく一番根底的なところだけを見据え、そこから自在に外界を見つめていたのだ。何か世の中が騒がしくなってくると安吾が甦るとよくいわれるが、安吾は別に変わらないのである。彼の生き方も表出の仕方も、どこを切っても金太郎飴ならぬ、安吾飴。確かな視座が、混乱の時代にはよりはっきり見えてくるだけのことである。安吾の言っていることは本質的でシンプルだ。一言でいえば、生きろ、ということだ。その為には“あちらこちら命がけ”にもなるし“堕ちる”事もある。赤頭巾ちゃんが、何の罪もないのにパクリと喰われる。そのような現場に立ち合い、なすすべもなく呆然とすることも在る。生きていれば誰だって色々な目にあう。それが生きるということだ。

 またまた私事だが、芝居などという最も下世話な表現を選んでしまった為に人と普通以上にかかわる人生を送ってきて、この頃になって愕然とする。私は結局、本当に人と関わってはこなかったのではないかと。人ときちんと関わるのが苦手だったからこそ、不得意分野の芝居を選んだにも関わらずである。でも自意識過剰の文学少女の時から安吾は常に傍らにいた。学生運動のさなかで、もうあんたはいらない、とイキがったこともあったが、すごすごとまた安吾の傍に戻り、授業料闘争の甘さに嫌気がさして、ゴロゴロ寝正月のあげくに卒論は安吾に八つ当たりして安吾への愛憎ででっちあげた。 
  
 安吾は私の青春の免罪符でありバイブルでもあった。早稲田小劇場の十年は修行期間のようなものだった。役者として実(じつ)がとれず、まがりなりにも芝居をやってこれたのは安吾のおかげといっても言い過ぎではない。私は役者に向かないといわれ、そうかもしれないと思いつつ、こういう時代に役者らしい資質の者だけが役者になるのはおかしいとひそかに考えていた。骨の役者になるのだと。私は肉の匂いのする役者は嫌いだったのだ。そのくせ肉がなければ骨も生きられないのだということすら気づかないマヌケ振りだった。ある年の正月、なぜか海へ初日の出を見に行った。曇っていてまだ明けきれない海の堤防に添って蛍光灯がカーブに並んでいて全てが灰色だった。殺風景な風景だった。皆は落胆したが、私は美しいと思った。何も余計なものがない、海と人工の堤防と蛍光灯と、全てがモノトーンだった。具体的な風景だが抽象的でもあった。私は思わず、こんな風景のような芝居をしたいといった。仲間に失笑された。だからお前は役者として駄目なのだと。問題だと。後から思えばそうかもしれない。その風景には人がいなかったから。でも私は、確信に近くそうではないと思っていた。あの灰色の風景は、今も私の心の中に生きている。その時も私は安吾のことを無意識に考えていたのだ。この風景を美しいと思うことは、彼には理解してもらえると。あの灰色は単に無機質ではなかったのだ。あたたかさの期待も含む冬の海岸線、夜明けの兆し、ちっぽけな人間の、だからこそいとしい生の営み。その切なさをあの風景に置きたかったのだ。芝居は残るものではないからこそ。新居浜にある安吾の碑、「ふるさとは語ることなし」。海と向かって立つ安吾そのもののような碑。私にその雄大なスケールでつくれなくてもだ。

 山と海に手が届く瀬戸内海の温暖な神戸で育ち、東京で生きることを選んだ私には都会的なものに対する嫌悪と愛着がある。神戸には色がある。東京はモノトーンだ。私は十八の時上京してあっという間にモノトーンに染まった。もしあの海岸が永久にあのままだったら、私はあの風景を美しいとは思わなかったはずだ。いつかバラ色に染まり、波頭が白く映え、青く波が変わる期待の中にあのモノトーンはあったのかもしれない。安吾先生、今でも私はあの海岸が忘れられないのです。桜の森の満開も私にとっては最後は光り輝くモノトーンなのです。子供の頃みたお墓の桜のカーペットが真っ白な雪のように見えたように。

 昨年の暮、長年の芝居の仲間が突然狼に喰われてしまった。赤頭巾ちゃんのようなかわいらしさはなかったけれど、芝居を好きな純粋さは赤頭巾ちゃんのようにピュア−だった。私は呆然として、同志をなくした痛手がこれほどのものであったのかと思い知らされ、何も手もつかず、安吾に関する百年に向けての文章も宙にういたまま1ヶ月が過ぎた。彼は、夜長姫と耳男を舞台化した時も構成を手伝ってくれ、構成をしない時も現場にいた私の仕事の一番長い伴走者だったのである。亡くなる二日前「やっぱり安吾はいいですね、何か新作、舞台化しましょう」と電話で言われた。私は安吾の作品を舞台化したいことはもちろんだけど、安吾の作品をそのままリーディングする上演も面白くなってきていたので「もう少し待って」というと、照れくさそうに「さっき読み返していたものだから」という。「何を」と聞くと『紫大納言』だった。彼が亡くなる前に読んだ最後の本だ。享年四十九才。安吾生誕百年の年に、彼は逝ってしまったが、私はこれから百プラス一年祭、百プラス二年祭と、年の最初の上演には安吾の作品をリーディングすることに決めた。安吾を大好きだった彼のためにも。何年続けられるか、でも私の後にもこのささやかな企てをしてくれる若い人がいると思う。実はちゃっかり、次のランナーは予約済み。彼女が責任をもって次の人をゲットしてくれれば、この小さなリレーは続いてくれることだろう。安吾を好きな人が安吾を声に出して読む、めでたい年のはじめの舞台に!

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 いささか私的に過ぎたかもしれないが、安吾という現象はそれほど多くの人に、それぞれの生き方にそれぞれの現象をもたらすのである。

 安吾生誕百年は、私にとっては安吾にふさわしく怒涛の1年であった。そして、またここから、最後までの闘いが始まるのだと考えている。

 生誕百年プラス1年、2007年最初の舞台は、『桜の森の満開の下』を原文で(何と今までこれだけ上演してきたのに原文で全部を語るのは初めてなのである)。エレクトリック大正琴の竹田賢一とのセッションでライブリーディングをする。そして百プラス2年の予定は、高校生も含めた仲間たちと説話3部作『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』『閑山』の3作をを日替わりで賑々しくライブリーディングしようと考えている。そしてプラス3は、プラス4は、プラス5は……と次から次へ、いくらでも!舞台に立つかぎり!

<あちらこちら命がけ>で……


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